西那須野から大田原へ・東野鉄道【後編】
ぶらり大人の廃線旅 第20回
東野鉄道、最大の遺構
光真寺は同寺のホームページによれば天文14年(1545)開創の曹洞宗の寺で、大田原家13代中興の大田原資清(すけきよ)公の開基である。山号は「大田山」という。東野鉄道の廃止から今年で49年なので、山門の前を汽車が往来していた情景はなかなか思い浮かばない。人間なら今年がちょうど五十回忌法要である。
廃線跡の道路はほぼ直角に右に折れるが、もちろん線路はまっすぐ先へ伸びていたはずだ。ルートの延長上には隣の龍泉寺の山門があって、これは廃止後に建てられたものだろう。昨今では家が1軒1軒の形がはっきり表示される大縮尺の地図がネットで見られるのは、こういう時に厳密な特定ができるので重宝だ。
あたり一帯の住所は「山の手二丁目」だが、以前の地名を採ったらしい大久保町公民館の前の道が廃線跡で、これを東へ入るとすぐに行き止まりで、その先は草藪である。雨の中の藪漕ぎはあまり気が向かないが、すぐ先に廃トンネルが口を開けているのが見えたので行かざるを得ない。これまでの区間はモニュメントと跡地の道路だけであったので、これが最大の遺構だ。
貴重な遺構-煉瓦巻きのトンネル
濡れた草と笹の藪をかき分けて、家の裏手と山の斜面との間の廃線跡を80メートルばかり歩くとトンネルの坑口にたどり着いた。中は材木などで通せんぼしてあるので入れないが、それは仕方がない。よく見れば坑口のアーチ部分は煉瓦積み、その周囲は切石積みである。きれいに小口を揃えて積まれた煉瓦を見ていると、大正時代の職人たちの姿が思い浮かぶ。
トンネルは60メートル弱の短いもので、大田原神社の下をくぐった先で蛇尾(さび)川の鉄橋を渡っていた。もちろん線路跡は歩けないのでこれまで来た道をふたたび藪漕ぎして戻り、国道に出る。傍らには「旧奥州道中 大田原宿 大久保木戸跡」とあった。
先ほどの公民館の「大久保」はやはり由緒ある地名だったようである。東北本線がこの宿場を経由せずに、当時原野が広がっていた西那須野あたりを通った理由は何か。お決まりの「鉄道忌避伝説」には惑わされたくないが、地形的な条件もふまえて総合的に判断した結果なのだろう。
蛇尾川に架かる国道461号の蛇尾橋を渡りながら上流側の右岸に注目した。川原はあたり一面が礫で、大雨の時の暴れ方がしのばれる。サビは難読だが、源流が那須連山の南西にあたる帝釈山地の大佐飛山(おおさびやま)というから関連しているに違いない。蛇のつく地名は土砂崩れ関連が多いと聞くが、最初にサビという音があり、それに川の性格を表わす字を付けたのではないだろうか。
橋を渡りながらトンネルの出口と橋脚の痕跡を確かめようとしたが、木が茂ってよくわからない。それでも橋の半ばまで来ると、丸石積みの護岸の先に橋脚らしきコンクリートの構造物が見えた。おそらくこれが橋台だろう。
暴れ川の中に橋脚を遺しておくのは危険ということか、撤去されたようで他には跡形もない。トンネルの坑口あたりは木の陰になっていて確認できないが、川岸は切り立った崖なので近づくのは難しそうだ。現役時には立派なトラス橋だったそうだが、大田原や黒羽などの乗客や貨物を運ぶメインルートだった時代の勇姿は、今となっては想像するのみである。
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